スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

身体ってどう感じてる?

何もしないで何かを得ようとするのは
ムシがよすぎるというものだ。
本気で成功したいと思うなら、
ズルはしないことだ。
根気よく努力するしかないのだ。

    ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』


ということで広いテーマです…

最近、講義内容を考えるため
いろいろ文献やら読んでるんですが

最近は現象学の文献などにはまっていたりします。


脳科学やらいろいろ調べても
結局
自分や患者さんが感じるのは
その瞬間瞬間の

身体の感じ

その瞬間に感じている現象

じゃないのかな、
なんて思ったりします。


そうゆう意味で
現象学は様々なヒントを
与えてくれます。

脳や脊髄のそれぞれのつながりや
経路などを勉強しても
(もちろん知ることは大切です)
結局様々な部分や
介在ニューロンなど
えらい数のつながりがあります。

脳や脊髄の1部分が個別に働くことは
ありません。

そう思うと、
脳や神経系の勉強だけをしてても
実際の臨床場面ではうまく説明が
できないことが多すぎるんです…

様々な目に見えない部分の問題が重なりあって
外から見える運動になっているはずです。


まだまだ答えは見えません…



ということで
身体をどう感じる?なんて話ですが

身体は感じる、前に
”それ”として
存在しているようなんですね。

毎回自分の手を
そこらにある携帯のように
探しはしません。

あることは
意識しなくとも
理解してるんですね。

しかもそれは
たとえ手が動いていなくても
(入力情報の変化がなくても)
手がある、
ということは自分たちは知っています。

自分で動かしても
他人に動かされても

自分の手が動いてる(動かされている)
と分かります。

activeな情報でも
passiveな情報でも

自分の手であることに変わりはないんですね。


筋収縮を伴っていようが、いまいが
自分の手
なのは分かってるんですね。


じゃあ自分の手
って分かるためには
何が必要なんだろう

なんて考えてしまいます。


そんな話を
今度講師のI丸先生と
後輩のスーパーエースの子と
あれやこれやと話していました。

患者さんには
この身体の”存在感”なるものが
ない方が多いんではないでしょうか?

議論の中で話題に挙がったのは
随意運動が消失した
身体の存在感までも消失した
弛緩性麻痺の患者さんが
運動を再獲得するためには
どうしたら良いか?
なんて感じでした。

弛緩性、つまり筋緊張が異常に低い
ということは
上肢を例に挙げると

上肢の重さを感知できない
またはあることに気づけない
ために
重さに対応した筋緊張が
生み出されないのではないか

もしそうであるなら
介助の量を変化しながら
重さ、という情報を
感じ取ってもらうことで
上肢の存在に気づき
その重さ、存在に気づくことで
筋緊張に変化がみられるのではないか?

また後輩は
しっかりと筋は把持し、
筋の情報を与えていく

と言いました。

弛緩性であれば筋緊張は低く
筋紡錘の発火も落ちるでしょうから
筋の情報は減っているはずです。

でも筋感覚は
脊髄小脳路系なので
意識には直接挙がりにくいはず。

でも実際臨床場面では
何らかの変化
介助運動に追従してくるような
反応がみられる患者さんもいます。

今日は訪問に出ながらこのことをずっと考えてました。

ちゃんと仕事しさいよ…わたし。

確かに上手い人にハンドリングされると
動かしやすくなるよね。

でもこれって
何が起こってるんだろうと。

自分の目を閉じて
動かす時に感じるのは
実際目に見えるような上肢ではなく

うちの場合は白くもやもやした影
のような形で上肢を認識します。

白熊のきぐるみを着てるような感じね。
着たことないけど(笑)

さっきも書きましたが
これは
自分で動かしても
他人に動かされても
この白い影、
はあんまり変わらないんです。

ということは筋収縮で認識
してるわけじゃないんでしょうね。

ただ厚みがある、ってことは
骨で認識してるわけでもなさそうだ

筋の長さの変化によるものと
そのときの皮膚の伸張感なのかしら

でも皮膚の伸張は直接感じない…

この辺りが複合して
上肢 という大雑把な全体像として
感じているだけのような感じもします。

そう考えれば
把持をしっかりすることで
皮膚や筋・筋膜の変化が強調されて

うちにとっての
白熊の腕のような
上肢、というような
感じが出てくるのかもしれないですね。

だけど
これも自分は肩や肘や手といった
個別部位の認識が前提としてあるから
その白いもやもやが
その肩や肘といった”点”を
結び付けていることができるからかもしれない
と思うんです。

ハンドリングをして
その場で
何らかの反応が出ても
患者さんがそれを自己の運動として
できないのであれば
それはまだ患者さん自身がその感覚を作り出せないの
かもしれません

そこに肩や、肘、手といった
点の部分が存在するからこそ
空間での自分の上肢の位置を確認
でき、
さらには視覚的なイメージにも変換しやすくなるんじゃないかと。

治療でもちろん
感じ取ることは大切だけれど
それだけではなく
それをどう運動に結びつけるか
身体を感じれれば運動ができるわけでは
ないはずです。

長くなりました。
答えがなくすっきりしませんけど
ちょいと考えるきっかけになれば
と思い書いてみました。

講義までに形に
できれば、
と思います。

今日話した2人の先生
ご意見を頂けると
ありがたいです。
関連記事
スポンサーサイト

コメント

Yu先生:

コメントありがとう。ブログも拝見しました。
1年目とは思えないです。

ハンドリングは大事だと自分も思います。

けど大事なのはハンドリングをすることではなく

ハンドリングは”何”をしているのか?
患者さんにとってハンドリングされている時に
”何”が起こっているのか?

があってのハンドリングですよね。

ハンドリングはあくまでツールです。
ハンドリング=治療ではないです。

ハンドリングしても
患者さんに有意義な変化がなければ

簡単に言えば
ただ触って、動かしているだけ…
患者さんにとっては
ただ触られて、動かされているだけ…

だったりするんじゃないでしょうか?

患者さんの中には
その触られる、動かされる
ことさえ認識できない方もいます。

そこにハンドリングの意味は
あるのでしょうか?

運動が思いどおりにできない患者さんが
いたとします。

思いどおりに動けない原因、
を評価で仮説を立てたとします。

そこから生まれてきた問題点に
アプローチできるのであれば

別に触らなくてもいいかもしれません。

言語や本人の注意の部位、
注意の仕方を変えるだけで変わるのであれば

だからハンドリングに必ずしもこだわる必要はなくて
患者さんが改善するのであれば
別に触らなくてもいいんじゃ?
というのが管理人の考え方です。

触ったり、動かしたりすることが意味が
あるのであればそこでハンドリングを
使うこともあります。

だけどここでも評価が必要です。

ハンドリングを外しても
運動の改善が持続していなければ
そのハンドリングは
患者さんの学習に結び付いていない
と思います。

患者さん側としては
そのハンドリングの時に
何を学習したらいいか?
が分からないのかもしれません。

だからハンドリングするにしても
何にしても
主体は患者さん、
でなければいけないと思います。

こちらは
患者さんの抱えている問題点を
改善するために
何を学習してもらわなければいけないか?
を明確にし、
自分の場合であれば
患者さんに分かるように
説明、実感してもらい、
患者さんにも
何に気をつけてもらうのか?
何で上手く動けないか?
の理由を患者さん自身に
言葉だけでなく
身体で実感してもらいます。

実感の仕方はケースバイケースですけど。

そうしないと
患者さんはタスク一つ一つにおいて
何が課題になっているか?
さえ良く分からないまま
そのタスクを行わないといけないですよね。

こちらは提供者なので
このタスクは
何を目的として
このタスクができることで
患者さんに
どんな良いことがあるか?
を伝えないといけません。

痺れの講義をした
おっさんもゆうてましたよね。
インフォームドコンセントが大事、って。

長くなりました。
またご意見ありました
コメントをお待ちしております!
本日2回目です。
これが前回の勉強会の内容となったのでしょうか。
まさしくという感じで見させて頂きました。

確かに上手い人にハンドリングされると
動かしやすくなるよね。

とありましたが、
ハンドリングだけではないようなことも書いてありました。

ハンドリングというのは非常に大事だと思っている私ですが
どれほど大事なのでしょうか?
そしてそのハンドリングに代わる何かはあるのでしょうか?

思うがままにコメントさせて頂きましたので
非常に失礼な部分があったかもしれませんが
何かお返事頂けると幸いです。

管理者のみに表示

トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。