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リハビリにおける改善とは

生まれたときから目が見えない人に、
空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ?
こんな簡単なことさえ言葉に出来ない俺は芸人失格だよ


               江頭2:50


自分の関わりは
患者さんにとって
何の意味があるのだろう…

最近、よくこのことを考えています。


ツイッターにもこのことに関係したことを
つぶやいていたので、
まとめがてら
リハビリにおける改善とは、を考えてみたいと思います。

多くの内容は脳卒中患者に対するリハについて考えていることです。

青い字がツイッターで書いたことです



リハビリは万能ではない。

損傷された脳や身体の組織は治せない。
脳卒中後の運動の改善も病前とは異なったプロセスの獲得だ。
自分たちにできるのは病前の身体を復活させているのではなく、
病前と同じように痛みや動きにくさを感じることなく
自然に使える身体に近づけることなのかもしれない




脳の損傷領域は回復しないとされています。

ではリハビリによってもたらされる動きの変化は
何が起こっているのか?


最近、よく論文などでみる電気や磁気刺激、物理療法などは損傷組織に直接的あるいは間接的に作用することができるのかもしれません。

でも自分の治療の多くは、患者の言葉を聞き、手で触れ、言葉をかける、ことが多いです。

その中で患者さんがより楽に、自然に、思い通りに動けるためのコツを一緒に探します。


でもそれは脳からみれば全く別の経験をしているはずです。

今まで考えもしなかった自分の身体の感じ方や
どうしたら動かせるか?なんてことを感じるという初めての経験です。


今まで自然にできていたことを
どうしたらいいか、考え、感じ、動きながらそれを見つけます。


それは損傷領域周囲の損傷された領域と似たような機能を果たす残存領域を賦活しているのか
全く別のネットワークを再構築しているのかは、分かりません。

そもそも脳も損傷領域の周囲が、その損傷された領域の果たすべき機能と
似たような機能を果たすのかすら分かりません。


似たような出血部位や大きさであっても、
患者によって現れる症状や現象が
同じことを経験したことがないです。

大きく、解剖学的にある程度果たすべき役割は分かれているとは思います。

個人差はあれど、みな大脳基底核などの解剖学的組織はありますし、
場所も人によって(被殻と視床の位置が逆なんてゆう)違うことはないので。

でもそれらの領域と他の領域とのネットワークの強さ、には
個人差があると思います。

イメージが得意な人もいれば苦手な人もいます。
閉眼でのバランス能力も個人差があります。


これまでの人生における経験が
それらのネットワークの強さを形作ると思います。

………
とまぁこんなことを考えていたら
何もやれないので…

そんなことは考えながらも

実際の臨床では目の前の患者さんの動きや言葉を大事にしています。


それは損傷した領域を改善しているのではないかもしれません。

でもリハビリは
別の神経ネットワークの構築かもしれないけれども

以前と同じような生活を歩むための身体、動きを
再び獲得することの役に立つのかもしれないと思います。


そのために様々な課題や声かけから、
自己身体や環境へどう注意を向けるのか、
何を手がかりに動くのか、といった
認知プロセスを修正するきっかけを作る。

何を手がかりにすれば思い通りに動けるのか、
という病後の身体での新しいルール作りを手伝う。


そう考えると病前の脳や身体に戻す、
というよりは現在の身体をどう感じ、操るべきか、という
現実の体験を通じて現実の身体を改めて獲得していくことがリハビリなのかもしれない。

それには気づく、という実体験が不可欠。
本人が身体を通じて分からなければ、一人では自分の身体を思うように使えない。



やはり実感が大切です。患者さん自身が感じなければ何も変わらないと思います。

最近の自分の中で一番大切な部分です。

どんな理論であれ、テクニックであれ
相手(患者さん)に伝わらなければ、意味がありません。

伝わるだけでもいけません。

実感できたことが再現できる方法まで伝えなければ不十分です。

セラピストの関わりの中でしか実感が得られなければ
依存を生み出します。

自分一人でも実感できる、よう導くことが
患者の動作だけでなく、心理的な面の自立につながると思います。



ただ気づき、を重要視する、ということは患者さん自身が潜在的にその能力がある、ということを前提にする。


つまり無から有を生み出しているのではなく、潜在的には患者さん自身が持っているが、病後の身体、心理状態の変化から使いにくくなったり、使わなくなった部分、いわゆる抑制されている部分をセラピストの関わりによって解放している、ということかもしれない。



ここなんです。自分が悩んでるのは。

できないことができるようになる。
セラピストの関わりで患者さんの望むべき方向に変化する。

でもそれは患者さんが本来持っているけど使えていない部分を
引き出すきっかけを作っているだけなんじゃないかと。

気づいたらすぐに変化する能力を
多くの患者さんはもっています。

一つの言葉かけだけでも
あっという間に変化する方もいます。

魔法のように。


けどそれは患者さんがそれだけの能力を持ちながらも

以前とは全く変わってしまった身体経験により混乱していたかもしれない

もう治らない、と思って諦めていたのかもしれない

良い側だけで使おうとしていて
発症直後よりも自然回復で良くなったことに気づかなかっただけなのかもしれない

と思っています。


もちろんその潜在的な能力は
患者さん一人では引き出せなかったかもしれない。

そのきっかけを作るためにセラピストはいるのかもしれない。



何らかの障害により以前と異なる身体の感じを患者さんは初めて経験する。
その経験は見た目以上に患者さんの体験的世界を変える。
リハビリは障害そのものには直接アプローチできないかもしれない。
けど患者さんの体験的世界を以前と同じような世界に近づけるきっかけを作ることはできると思う。


患者さん自身の体験している世界にはその患者さん独自のルールが構築される。
強制される日常でのADLや評価不足による高すぎるリハビリでの課題や動作練習を遂行するために。
使える部分をフル活用した、
身体の一部分に依存した動作を生み出す。
その世界の中で障害肢は不要なものとなるかもしれない


以前と同じような世界、自分の思い通りに動き、同時にそれを感じ、そこにズレ(違和感)がないこと。
でも最終的は自分の動きなんか気にもせずそこで感じることなんかも気にせず
それが当たり前のものとして存在し、
生活や他者との関わりなど、自分の内にではなく外に意識が向かうような世界。

生活、には他者との関わりが存在します。
環境との関わりが存在します。

自分の身体がどうなっているとか、気にしていたら
外への関わりはぎこちないものになるかもしれません。

でも自分の内の体験的世界が混乱していれば
外(他者や環境)との関わりには問題がおこるかもしれません。

今まで通りにはできないかもしれません。


だから自分の治療は、まずこの体験的世界を
以前と同じような世界に近づける、
以前と同じような体験の仕方を再度構築しなおす、ことを考えます。



その独自のルールを変えない限り、
例え見た目だけが正常と呼ばれるような形に変えても、
患者さんの体験している世界は変わらないかもしれない。
それは独自のルール(使える部分だけを使った)を活用して、
セラピストに言われるまま、見た目だけが変わるように作られた虚像に近い。

その中での真っ直ぐは、
セラピストが外見だけを指標にした真っ直ぐであって、
当の患者さんは真っ直ぐかどうかも分からず、
ただただ動く部分に頑張って力を入れているだけかもしれない。
その状態をセラピストの真っ直ぐだよ、
なんて声かけにより真っ直ぐの体験を伴わない間違った真っ直ぐが作られる。


セラピストの影響力は大きいです。

リハビリの先生がそうゆうなら、それが正しいんだ、という
先入観を作ることも多々あります。

自分の関わった方でも
(他のセラピストが担当している方で)

「先生がこういったから、こうやってます」のような

声を時折聞きます。

でも僕が「そのやり方、楽ですか?」と聞くと
「いや…でもそう言われたから…」

ということがあります。

外見上の問題をすごく気にされる方であれば
患者さんの実体験を無視してでも
見た目が本人の望むようにさえなっていれば
ある意味、意味のあることなのかもしれません。


でも体験の伴っていない真っ直ぐは
それを基準に動作をした場合には
他の部分に負担をかけることになります。

麻痺側下肢の支持性が低く
座位で骨盤が麻痺側後方に崩れている患者さんがいたとします。
それを腰背部を過剰に緊張させなんとか
脊柱と骨盤をつなぎとめることで
真っ直ぐの姿勢を作り、
セラピストはそれを
「良い姿勢だ」と言ったとします。

患者の体験的世界は
麻痺側下肢の重さと踏ん張れない頼りなさ
は感じ続けながらも

腰に目一杯力を入れている状態
が良い状態とリハビリの先生に言われれば
腰に目一杯入れることが良いこと、というルールが出来上がるかもしれません。

でも次に立ち上がりの練習となり
同様に腰に力を入れても一向にお尻は持ち上がらない

そしたら今度はセラピストは麻痺側下肢に力を入れろという。
どうやったら踏ん張れるかは教えてもらっていないのに。

セラピストは大腿四頭筋の筋収縮を触診し、
患者さんが目一杯力を入れたら収縮があり
「それで良いよ」なんて言う。

今度は太ももに目一杯力を入れることが良いというルールができる。

患者さんは太ももに力を入れて立とうとする、
今度は踏ん張ろうという意識が影響したのか
麻痺側に身体が傾く

するとセラピストは
上半身を傾けないで!!

という、再び腰に力を入れる。

でも腰に力を入れれば下肢への注意が反れ
麻痺側の力が抜け
麻痺側に傾く…

腰?下肢?どうしたらいいの?
一緒にはできないし…

なんて長くなりましたが、
こんなことになっているのではないでしょうか?


元をたどれば、
麻痺側下肢の使いにくさが上半身へと影響をしています。
でも最初にそれを上半身を使うことで真っ直ぐを獲得しようとしました。

でもそれは下肢の違和感は何も変わらないままかもしれません。

その違和感が本来の体幹の崩れに影響をしているかもしれないのに…。



すごく分かりにくい話になってしまいましたが

外見上の崩れも
考えてみれば
患者さんの混乱した体験的世界の
現れなんではないかと思います。

その世界が患者さんの望むような体験を作り出していくことで
結果的に外見にも変化が生まれてくるような関わりができることが
自分は大事だと思います。



つまり
リハビリではもちろん見た目を考えることも大事だと思いますが
見た目の動きを作り出している
患者さん自身の体験をしっかりと
汲んで進めていくこと

患者さん自身の体験を理解する努力も必要なんではないかと最近思いました。
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コメント

No title
頑張ってくださいませ。

患者さんを良くする方法は無数にあると思います。

脳の機能解剖もその一つだと思います。


先生はそんなことないと思いますが、
知識が沢山あることはものすごく大切だと思いますが、
知識だけで終わってしまうのは
宝の持ち腐れだと思います。

臨床にいるからには
目の前の患者さんが変わってこそだと思います。

そのための知識でありたいですね。

自分も毎日悩みながらやっています。
すぐに良くならない方もたくさんいます。

だからこそ勉強し、考え実践しています。
No title
目の前の患者様のためになることを一生懸命考えてやる。
そんな基本的なことが、どうしてわからくなってしまうのでしょうか。

裏返せば、先生は患者様のためになることを人より多く知り実践する引き出しを知っているのでは、と気づきました。

一症例、一症例を丁寧に見続けた先生の、真の経験が成せる技だと思います。
僕も、真の経験を積みます‼
努力します。


No title
意外にそんなもんだったりします。
難しく考えることも大事だけど、
まずは目の前の患者さんに
何ができるか?

その方は痛みがその方の生活に影響していたのなら
何とか療法やら、小難しいアプローチよりも
手すりを持つ、ことの方が良いアプローチなんでしょうね★

そんな経験の中から
多くの人に役立ちそうなことを
臨床研究として自分は発表していきたいと思っています。

学会発表や研究のために臨床があるのではなく、臨床での経験や試行錯誤の結果が、研究として発表できるもの、になるのが自分の理想ですね。難しいこともたくさんありますが…。


これからも一緒に頑張っていきましょう!勉強させてもらいます!
No title
最近こんなことがありました。

特別な運動療法手技を用いたわけではないのですが、
声かけや患者様と共同作業でどんな立ち上がり方法を行えば、腰部痛が起きないか、様々な方法を一つずつ確認するように繰り返しました。
結果的には手すりをキュッて持って、1.2.3で立って、グッて力を入れることでした。笑

「ちょっとしたことで違いますね。」と患者様。

確かに学会発表や論文には向かないアプローチであったかも知れませんが、結果的には患者様の疼痛の訴えは減少し、患者様の満足気な顔は印象的でした。

でもこれって紛れもなくリハビリテーションですよね。
ヘタな学会発表よりも、すごく意味のあること。


先生のblogからも、忘れかけてた大切なモノを思い出させてくれたように思います。

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