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運動イメージは使えない?

講義資料希望の方にメールで脳祭りの感想を書いて頂いております。


多くの方から感想やご意見を頂き、
多くの方が何らかの発見や気づきがあったようで
嬉しい限りです。


そして自分の講義の感想では
何名かの方が
質疑応答で言った

「(運動麻痺を持った片麻痺患者さんに対して)
運動イメージは自分でやって分からないから患者さんには使わない」

という発言が印象に残った感想によく書かれています。

昨日今日とそれについてもんもんと考えたのでまとめて書こうと思います★
ツイッターでも書いてあります☆


運動イメージを患者さんに使わないと言った背景…

ある程度イメージやら脳を勉強した自分でイメージできないことを
そういった知識が全くない患者さんにイメージしてと言って
患者さんができました!とゆうてもそれが何か分からない
それが何をイメージしているのかすらイメージできない。

だから自分は運動イメージを
患者さんの世界を理解するためのツールには自分はできないということ。
誤解のないようにしたいのですが
イメージを使ったらいけない訳ではありません。


ただ自分はイメージとか予期はイメージできる、できないという視点でなく、

患者さんが動き出しそう、安心している、リラックスしているなんて反応があれば
何かしら自分の運動のイメージや予測ができているのでは?と考えています。

例えば立位訓練でアプローチ中に
患者さん自ら「歩いてみていいですか?」といった発言に
イメージや予期ができているんじゃないか?と解釈してます。


イメージや予期は行為と解離しているのでなく、同時に背景的に存在しているもの。

できる、と思える背景にはイメージや予期があり、
できない、という言葉の背景にはイメージ、予期ができていない、ということを含む。

だから言葉で「イメージができました」と言われても
行為につながらなければあんなこといいなできたらいいな…(ドラえも○)の世界。


イメージは実感の中に内在する。

何かしらの行為や運動課題が成功した際、
その成功した体験を何らかの体性感覚を手がかりにしたら再現できた場合、その手がかりこそがイメージとも言える。

だから患者さんに良いイメージをもってもらうためには良い実感をできる経験があってこそだと思う。


運動イメージは実体験の中で育まれる。

経験していないことを予想するのはあくまで視覚的イメージであったり、他人の動きを見てこんな感じかな?くらいの予想でしかない。

知覚経験は本人にしか分からず、本人の言語でしか説明できない。

ばく転ができない私ができるばく転のイメージは行為につながらない


つまりイメージはできること、できたことの再現性や精度を高めるためには有効であるが、無から有を作り出す訳ではない、と解釈してます。
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