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感覚障害を考える

いつまでも無知でいたければ、
極めて効果のある方法がある。

自分の取るに足らぬ意見と知識に満足してればいい

          エルバート・ハバード



そう…満足したらそれまでですね。

自分には満足できないくらいの
頭のおかしいセラピストが周りにいてくれてありがたい限りです★


たまには自分の臨床や勉強していることで思うことを書こうと思います。


まずは視床の画像…

視床


視床といえば感覚障害!くらいに学校で習ったはずですが

画像を見れば分かるように
図の紫と水色、緑の部分がいわゆる感覚野に対応していますよね。
対応領域は目測で
視床全体の大体1/3位…。

だから視床出血、といっても
感覚は意外に残存、という方もいらっしゃるんですね。


脳祭りでも参加された方は感じたでしょうけど

知っていればそれだけ画像から得られる情報、
アプローチの際に
気配り、心配り、効果判定する
要素が増えるんです。

視床の機能局在を知っておくだけでも

画像で視床のどの辺か気をつけて
見るでしょうし、
そこで考えられる症状、
患者さんは何に困るのかな?

なんてことまで考えられるかもしれませんね★


まぁ教科書的なことは
教科書に載っているので読んで下さい。

僕も最近勉強してるとこなので偉そうに書けません(笑)



ということで自分の最近の臨床で感じたことについて書きます。


感覚障害

いつも解釈に悩みます。



患者さんは
麻痺側の上下肢が
「分からない」
「感じない」

と言います。


その言葉にはどのような背景があるのでしょうか?



何が分からないかすら分からない、かもしれません。

何を感じたらいいのかすら分からない、かもしれません。



病前と違うことは分かるけど、何が違うのかすら分からない。
病前には当たり前にあった感触がなくなってしまっている。

だけどその感触は当たり前過ぎて、無くなったことは分かっても、
何が無くなっているのかは分からない。

変なことは分かってもどうしたらいいか分からない。

感じますか?と聞かれても、

何を感じるのか分からないかもしれないですよね。


または実は何かしら感覚は残っていたとしても、
病前とは全く違う感触だったり、
その感覚がわずかであったとしたら
患者さんの中では
(以前と同じようには)感じない
ちょっとしか感じないから、これを感じる、と言っていいのか自信がないから

「感じない」

という言葉が出ることもあるのではないでしょうか?


あと感じる前から感じない、という先入観を持つ方もいます。
感じようとすることを辞めてしまっている、ともいえるでしょうか


急性期に重度の感覚麻痺でそのまま非麻痺側での動作遂行が学習されている方に多い印象です。
時間経過で実は感覚障害が変化していても、動作パターンが非麻痺側優位で完成されてしまったがために麻痺側の身体を感じる、機会がなくなっている方にみられる印象です。

あとは麻痺側の身体はもう使えない、という諦めの心理状態になっている方にもみられます。

そういった方は少しでも自分の身体を感じられることで表情にも変化がみられ、麻痺側の身体への印象も変わることがあります。


また
運動麻痺と感覚麻痺がある方では
自分の運動と感覚情報にズレがあるため、
自分が運動している感じがない、または変だということもあります。


自分の印象では多くの方が
動きを「目」で感じようとしています。

随意運動を視覚的にどこまで、どう動いたかで確認します。
そうすると見た目は非麻痺側と同じ位置まで動いたとしても
実際の体性感覚情報は感じず、注意も向いていないために

例えば上肢の運動であれば
運動ー視覚ー体性感覚の情報で生まれる複合感覚が

運動ー視覚 だけとなり
運動に伴う感覚が生じず、
上手く動かない、という言葉につながるのかもしれません。



感じない、分からないから
感覚障害だ、と判断されます。

もちろん感覚に何らかの障害はあるはずです。


でもその感じない、という言葉の背景は皆それぞれ違うはずです。

健常人でも同じ刺激を入れたとしても
感じ方やそこから出る言葉は違います。

これまでの人生経験でその解釈や意味づけは異なります。


目の前の患者さんが

「感じない」という言葉を言った時、

自分たちに何ができるか?を
自分たちは考えないといけないと思います。

上述したいくつかの見方はあくまで仮説です。

それを患者さんとの言葉のやり取りや
自分たちが触れることでの刺激により

その方が抱えている感覚の問題を明らかにしていく、
さらにそれだけでは不十分で
その感覚の問題、さらにはその感覚鈍麻が引き起こしている
ADLへの問題をどう解決するか?

まで考え、実践しないとアプローチは成立しません。


感覚障害が重度だ、軽度だ、と診断するのが
大事なわけではありません。


それを評価した上で、
じゃあどうするか?
患者さんが抱えるニードにどう応えるか?

がセラピストの役割じゃないでしょうか。


なんてことを最近考える管理人です。
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コメント

感激です。まさに対話の重要性を教えていただきました!同じ言葉でも裏に隠れる背景や気持ちを察する、推察する、それを治療につなげる。深いっす!本当に患者さんは当たり前の感覚がないことは分かるけど、それがどんな感覚は言葉ではいえないことも多いと思います。分からない感じることもやめてしまう。これも学習、そもそも体を感じる経験をする人は少ないですよね、バレエやダンスなどの特殊なスポーツやってなければ。経験してなければ、感じようとそっちに注意や思考が向くはずもないですよね。また随意性が高くても感覚が悪くて日常使ってない人もいますし。やはりこちらが誘導して、感じようとしてみる。自分の体に目が背きやすい患者さんに、いったん自分の体というものをしっかり実感させる手続きもあってもいいのかなと。ただ患者さんにはそれは苦痛、ストレスになりやすいもの。だからここにセラピストとの信頼関係や説明などが重要。信頼できないやつに嫌なことされても、感じようとすることも嫌になると思います。長くなると思ったのでFBでのコメントは避けました(笑)

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