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最近の管理人のつぶやき

11,12月のBridgeも締め切り間近となってきております★

いつも多くの方のご参加誠に感謝いたします。

11月の勉強会には
愛知、岐阜、三重、静岡に加え、
埼玉、大阪のセラピストの方からもご参加の連絡を頂いております★

10月にも大阪から来られた方がいて、
「どうやって知ったんですか?」と聞いたら、
とある人のブログを読んでいたら行き着きました…と。


ありがたいですが、ネット社会は恐ろしいですね…

ただ来てもらったからにはそれだけ、それ以上の価値を提供できるよう頑張らせていただきます。


ではでは、最近のつぶやきを…


ニードとゴール。近くのスーパーに買い物しか行かない主婦にスポーツカーは必要ない。

マニュアルをわざわざ運転し、速さも求めてもいない。
その上燃費は悪い。高機能を求めることが大切なんじゃない。


その人が必要な身体機能は何か?を知らずに高機能を押し付けるのがリハビリではない。


歩行でも上肢機能でも高い機能は何か?を考え、知っておくことは大切。

でもそれをどのレベルまで求めていくかは患者さんのニードに沿いながら考えていく必要がある。


80歳のおばあちゃんにいわゆる正常歩行を求めようとすれば腰を伸ばし、膝を伸ばすことばかりに注意しなければならず、会話も楽しめないかもしれない。

その患者さんは他人に迷惑をかけず、ゆっくりと自分のペースで歩ければ良い、ということが望みであるなら、正常歩行の押し付けは、余計なお世話になってしまうかもしれない。

ニードを知らずして、その方の喜ぶサービスは提供できないと思います。





通常、身体運動は意識されない。

患者さんは身体が動かなくなった時に初めて、動かすことの難しさに直面する。

意識的には何も考えず、感じず当たり前だった運動。
どこをどうしたら動くか分からない。

どこか力の入る場所に頑張って力を入れ、視覚的には動いていても、以前とは全然違う。



セラピストに他動的に動かされ、それが例え関節の運動学に的に正しい動きだとしても、全然そんな風には感じられない。
ただ勝手に動かされている感じ。
動かされることで動くようになる訳ではない。

また運動学的に正しい動きでもそれはあくまで教科書的な話で、患者さんは何が正しいかなんて分からない。


そこで身体所有感や運動主体感を考える必要がある。

でも臨床では運動前野や頭頂葉が働いているのかは分からないし、働いていることが確認できてもそれは各個人で意味付けは異なっているはず。

ものすごく力を入れ、いわゆる共同運動パターンで上肢や下肢が動いたと感じられても運動主体感があるはず。


話が替わって
11月の勉強会のテーマについての内容です。

他人に関節を動かされることで、自発的な運動は生まれるのか?
他動運動をきっかけに、自己の身体の動きに気づき、動くためのヒントを得られる方もいます。

逆に動かされている時も他人事のように興味を示さず、時には眠りにおちてしまう方もいます。


動かされることと動くことはその人にとって全く別の経験なのかもしれません。

何の文献か論文か忘れましたが、
運動器疾患患者の患肢を動かした際、身体運動を知覚する領域でなく、視覚的に物が動いた領域が働いた、なんてのを何年か前に読んだ気がします(そんなんなかったらすいません…超うろ覚えです)

つまり運動器疾患患者さんは自分の怪我をした上肢や下肢を「モノ」として認識している可能性があるということですね。

急性期で大腿骨頚部骨折の術後の患者で、膝から下は動くはずなのに、起き上がりや移乗でもできるだけ使わないようにし、まるで大腿義足が付いているかのように患側下肢を動かす患者さんがいます。

痛みからの代償だけでなく、「(動かない)モノ」としての認識、そんなことがいわゆる異常な運動パターンを生み出しているのかもしれません。


異常な運動パターンがあった場合に他動的にいわゆる正しい動きを繰り返しても期待したような変化がない場合、

そこにはセラピストと患者さんの身体や運動の認識、価値観の間にズレがあるのかもしれません。

そんな話を11月の勉強会で話します★乞うご期待!!
(ちなみにスライドはまだノー作成です)
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